(3) 表六甲ドライブウェー

戦後の六甲山の交通インフラとして重要な位置を占める、表六甲ドライブウェーの復興は一筋縄ではいきませんでした。


サーバーの移行に伴う変更について

逸翁の愛した六甲山 で紹介した「六甲山は泣いてゐる」では、小林一三氏が、戦後の六甲山の復興に対しての、市や県の対応の遅さに業を煮やしているのがよく分かります。
中でも、表六甲ドライブウェーは、昭和13年の阪神大水害で壊滅的被害を受け、不通のままになっていましたが、戦後の重要な交通インフラとして、早急なる再建を期待されました。

しかし、神戸市も、小林一三氏が急っつくまで何もしていなかったのではなく、ドライブウェーの再建を考え、苦心惨澹していたのでした。
丁度そのとき同じ考えの小林一三氏がいて、費用の一部を肩代わりすることになるのですが、そこに至るまで紆余曲折があったのです。

ここでは、戦後の表六甲ドライブウェーが再建され、開通するまでの流れを紹介します。
また、戦前版のドライブウェーのことと、祖父とドライブウェーの関わりについても述べます。

以下で (1) 等は文献番号を表し、クリックするとリストを参照できます。

1. 小林会長、お願いします !

表六甲ドライブウェーは、昭和13年の阪神大水害で完膚なきまでに崩壊し、不通のままでした。
神戸市は、これを何とか再建しようと考えます。
それは、六甲山の国立公園への編入運動が高まる中、編入された時点で観光ブームが訪れ、現在運営されているケーブルカーだけでは、輸送能力が不足すると予想されたからです。
その打開策として、摩耶山を中心に広大な山地を所有していた市交通局は、摩耶ケーブルと連絡する摩耶ロープウェイの建設計画を発表してはいました。
しかし、何といっても、神戸市街から六甲山上へは真っ正面のドライブウェーが欲しかったのです。

しかし問題は、建設資金です。
戦後の復旧のさ中、観光道路どころではありません
市内道路を先に直さなければ...

その上、何といっても、先のドライブウェーの潰れ方が惨澹たるものでした。
また、災害復旧事業として造られた多くの砂防堰堤のため、元の谷筋が使えない状態になっていました。
そこで、作り直すと約2億円もの巨費が必要になったのです。

この事業を、公共事業にするために、昭和13年災害の道路復旧費とか、砂防堰堤のための補償工事費とか、いろいろ大義名分を考えて陳情するのですが、まだ足りません。
新規公共事業の採択を要請して、さらにねばりました。
それで、昭和28年夏には何とか費用を捻出して、着工に至るのですが、もろい花崗岩の山に道路を作るのは大変な難工事で、翌29年の梅雨期には、随所で崩壊がおこる始末でした。
ちゃんと、路側下法留工と路面舗装をしなければどうしようもないのです。

(昭和31年当時の六甲山)

これを早急にするにはどうするか。
そこに、ひとつの切り札がありました。
昭和27年新道路法と共に制定された道路整備特別措置法 (旧法)です。
有料道路方式にすれば、一般財源を使わずに済む。
しかし、そうした有料道路は、全国でも日光と阿蘇にしか例がなく、しかも主体は県であり、当時知名度の低かった神戸市には到底、認可は下りませんでした。
とりわけ、当時の神戸市は本当に窮乏しており、昭和26年に公共事業一部返上という非常手段をとったぐらいですから、住宅・学校などの最重点施策ならともかく、市の起債には有料道路の枠などの余裕はなかったのです。

ところが、国といろいろ折衝しているうちに、特定の民間会社が民間企業用資金枠から借り、それを市へ転貸する 縁故債 という、最後の手段があることが分かったのです。
そこに白羽の矢が立ったのが、阪急です。
当時担当助役だった宮崎辰雄 元市長によると、

六甲山の開発では阪神が先行しており、巻き返しを図っている阪急なら対抗上、この話に乗ってくるのではと踏んで、阪急を選んだ。(20)
ということなのです。

そこで、宮崎氏は自ら阪急に森・小林米三両専務を訪ね、内諾をもらうのですが、やはり、大御所の小林一三氏にお願いしなくてはと、氏が避暑中の六甲山ホテルを訪ねます。

以下は、そのときの小林一三の話について、神生秋夫氏(市道路公社副理事長(56年当時)) が「神戸市史紀要 神戸の歴史 第三号」(18) の「神戸市有料道路物語(一)」の中で、述べている部分の引用です。

一部は ロープウエイは是か非か でも紹介しました。

第2回の会談の際に、こんなことを語られた。

神戸市からの要請で、融資の話をきめるときに、社内の一部からロープウェイの再建計画が持ち出されて、神戸市への融資との是非が検討されることになった。
ロープウェイの復活計画はかなり以前から担当部門で練られていたようだったが、私はロープウェイはもう時代おくれだ。
これからは自動車の時代だ、こんなことが見えぬようではどうするのか、近頃の三等重役どもはロクなことを考えておらぬと叱りつけてやったよ。

と笑いながら話された。

またさらに語をついで

しかしながら、この神戸市の自動車道路計画もちょっとお粗末ではないかと思う。
日本もこれからは欧米各国のようにオーナードライバーの時代になるであろう。
家族をのせて、景色をみながら安全にドライブするには、この道路計画では窮屈ではないか。
私の思うには、勾配は5~6パーセント、道路幅員は10メートル位欲しいものだ。
神戸市はこのようなことを考えなかったか

と言われた。

市は幅員10メートルまで考えなかったが、現計画の平均勾配8.3パーセントは余りにも急すぎるので、これを緩和する方法をいろいろ検討したが、何分ごらんの通りの急峻な六甲表斜面ではどうしようもなく、道路延長を伸ばすために途中でトンネルを掘り裏側へ抜けてから山上へとの案も考えたが、これだと現計画の倍以上の事業費がかかり、とうてい採算がとれないので不採択になった

と答えたところ、会長は、

採算というものは、唯単に道路だけを考えるべきでない。
もっと広く総合的、多角的にものを考えるべきだ。
例えば、この道路ができることにより、山上にあるホテルその他の諸施設が賑わい、これからの利益をプール計算することにしたらどうか。
また山上の土地価格の値上がりをも考慮すべきではなかろうか。
神戸市では採算上難しいというのなら、この計画をそっくり阪急に譲りませんか、阪急に肩替わりすれば、将来悔いの残らない立派な道路に仕上げますよ。

と言われた。

しかしこの道路は公道であるので、市だけしか有料制にできないことに法律上定められているので悪しからずと申し上げたところ、小林会長は笑いながら、

役人というものは、いつも次々と法律を作りながら、自分で自分の首をしめていますね。
皆、目前のことしか見えないようですね。

と戦前、大臣だった頃のことを回想されたのか、しみじみ言われて、神戸市の懇請をこころよく了承されたものである。

ということで、氏は8,000万円の縁故債を引き受けました。
さらに、市債と民間とのレートの差額についても、阪急が負担することになったのです。

これで、昭和29年の市会で、有料道路案件が一括上程、可決され、国の許可も下ります。
ついで30年着工、31年8月10日の開通にこぎつけました。

昭和31年8月9日付の神戸新聞 はこのときの様子を以下のように伝えています。

〝六甲山への近道〟完成 - ただしタダは通しませぬ

神戸市民をはじめ阪神間住民待望の〝六甲山への近道〟有料観光道路表六甲ドライブ・ウェイ(灘区土橋-山上前ヶ辻間5キロ)は8日徹宵で全線アスファルト舗装を終り9日午前9時半から神戸灘区高羽小学校で晴れの完成記念式典が行われた。...

ひきつづき同10時半から道路課長の先導で50余台の車が同道路を初走破したが、有料道路の起点トールゲート(料金関門)前で原口神戸市長が紅白のテープを切断、昨年8月、17年ぶりに開通間もなく土砂の崩壊で閉鎖されていた表六甲ドライブ・ウェイはここに完全に開通した。
新ドライブ・ウェイは幅員7メートル、アスファルト舗装、平均傾斜10というゆるやかさでスクーター、オートバイでの走破も簡単。...

なお同ドライブ・ウェイは10日から営業をはじめるが、使用料金は片道普通自動車は乗用100円、貨物200円、小型自動車は乗用80円、貨物80円、...となっている。

なお、最後の舗装が済んだのは、開通式の2時間前という、キワドイ工事でした。

■ 開通直後のドライブウェー
(九十九折りの道)
(ヘアピンカーブ)
2. 開通後のドライブウェー

表六甲ドライブウェーは、開通後、年々利用客が増え、六甲山における神戸市のドル箱路線になりました。

表六甲有料道路通行台数(18) (19)

年度年間通行台数1日通行台数
昭和32年度 162,802 466
34年度 283,488 775
36年度 287,406 787
38年度 507,2671,388
40年度 603,1811,653
50年度1,081,6564,305
60年度1,594,3924,368
平成2年度1,912,1975,239

より詳しいデータ

(年間通行台数の推移)

4年で倍増、8年で4倍増とパイテンポに利用者が増えた背景には、小林一三氏の読みの通りモータリゼーションの普及が大きいと考えられます。
しかし、原因はそれだけにとどまらず、昭和31年という極めて早い時機に有料化に踏み切ったということと、あの手この手の誘致作戦が効果をもたらしたといえるでしょう。

神戸市としては、

(1) 当時の車の能力ではまだ厳しい坂であったので、路肩を整備し停車できるようにしたり、自動車メーカーに依頼して、巡回サービス車を走らせてもらうなど、安全走行に気を使った。
(2) 料金徴収員に若い女性 美人料金徴収員 を起用した。
制服も特別のオーダーメイドだったとか。
これがマスコミの評判に。
(3) 夏場、市交通局では、ビールバス という納涼バスを運行。
三宮を6時に出て、カントリーハウスでビールをいただくというもの。
天然の冷房が入った、ビアガーデンですね。

というようなことが、ありました。

もちろん、昭和31年に 国立公園 に編入されたのが、成功の大きな原因ですし、阪急(六甲山経営株式会社) がタクシーを運行したのも助けになったことでしょう。
当時の市民の余暇意識が、うまく適合したと言えます。

いずれにしても、小林一三氏が構想したように、道路とそれを利用したサービスを整備するということがあってこそ、このドライブウェーは、現在もなくてはならない六甲山の動脈になったのです。

なお、この道路をサーキット場にするカミナリ族、今で言う暴走族が横行したのは、六甲山にとってはマイナスの面かも知れません。
自動車専門雑誌が煽ったということもあったようです。
いまだに、自治会では、暴走族対策に、腐心しておられるようです(23)

(ドライブウェー料金所)

3. 戦前のドライブウェー

昭和13年まで存在した戦前版表六甲ドライブウェーについて、いくつかの文献から引用して紹介します。
まず、完成までの経緯ですが、「なだ 神戸市編入50周年記念誌」(21) によると...

「灘区」が誕生した昭和4年、表六甲ドライブウェーが完成した。
この開発をしたのは大阪・天王寺で鋳鋼所(奥村合資会社)を経営していた博多出身の奥村千吉である。

彼は、第一次世界大戦で大もうけをし、33ヶ月のボーナスを出したという逸話の持ち主。
その利益の一部を割いて大正12年ごろ23万坪(約76ヘクタール)の山を買い込んだ。
いまの新ドライブウェーの終点、丁字ヶ辻付近一帯がそれである。
そして山の開発にはまず交通(道路)の整備が必要だと、私財12万円を投じ、昭和2年、阪急六甲から土橋-山上の前ヶ辻まで幅員4,5メートルのドライブウェーを完成し、そっくり兵庫県に寄付した。
開通の日、神戸のある修理工場にあったホロを張った旧式のフォードが途中で2回もエンコしながらやっと山上にたどりついた。
これが六甲山上に登った最初の車の記録だった。

とあります。
すごい人がいたものです。
奥村千吉氏はドライブウェーを付けただけでなく、2階建てのモダンな食堂を建て、谷川から水道を敷き、移動可能のポータブル・ハウスを作り、宣伝パンフレットを印刷するなど、当時としては破天荒な着想を実行しました。
しかし、これが六甲山開発のひとつの原型になっているようです。

次に「阪神電気鉄道株式会社50年史-輸送奉仕の50年」(22) での、阪神の野田社長(当時)の談話です。

ところで県の表六甲ドライブウエイの話にさかのぼるが、あの竣工式の時はうちの電灯散宿所の庭を式場に使った。
寒い時分でしたな。
みな式に出るために続々と自動車で登ってきたのはよかったが、急坂だから自動車の優劣がよくわかったね。
舶来の上等の車はさっさと上っていくが、たいていのやつは途中でエンコしてしまう。
上らんのだ。
馬力がないから...。
そのため落伍者が多かったんです。
それほどあの道ははじめから非常に無理だった。
その後崖くずれが続き、しまいに昭和13年の大風水害で木っ端微塵にやられてしまった。

さらに...

ところが話はウンと飛びますが、今度また神戸市が復活しようというんです。
できるだけ緩いカーブにするそうだが、根本的に六甲山の南側ではだめだと思う。
市の方では神戸からの最短距離だから、観光道路としてつけぬといかんというて着工するらしいが、うまく成功すればよいがと思っている。

僕がこんなことをいうと、何かケーブル擁護のように聞こえるかも知れんが、そんなことは毛頭思っていない。
急坂の無理な道に大金を賭けるよりも、現在傷んでいるが、ちゃんとできている既存の縦走道路を修繕する方がよいのではあるまいかと思う。

...まぁ、いろいろな意見がありますねェ。

4. ドライブウェーと祖父

ドライブウェーは、祖父の取り仕切る六甲山タクシーの主経路でしたし、また、阪急バスも運行されており、阪急にとっては六甲山の頚動脈に当たる道路です。
六甲山タクシーについては 六甲山経営株式会社 をご覧ください。

この新しいドライブウェーも、昭和36年6月の水害のため、一時不通になりました。
祖父はそのときの復旧の様子を克明に知ることができる、写真を遺しています。
アルバムの説明文とともに紹介することにします。

ドライブウエイ決潰
近藤氏、高岡課長に無理を言って...
応急で早急に通す様交渉 応急修理
応急修理簡易舗装終る
灘署が承知せず、安全索を取り付けヘアピンカーブの運行テスト
大型バスの運行テスト(阪急バス)
漸く、通行認められたるも、上方、下方に市バス、阪急バスより見張り員を置き、
上り、下りの車両規制をなし、シーズンを乗り切る

祖父の見た六甲山のトップ

Copyright (c)1998,2022 morichi

このホームページに関してのご意見は以下へメールしてください
kazuo@morichi.jp