六甲山をこよなく愛した 逸翁 - 小林一三氏。
その氏が、持ち前のアイデアを活かして、戦後の六甲山をどう復興しようとしたかをまとめました。
戦後の六甲山の復興に重要な役割を果たすのが、阪急・東宝グループの創業者である 逸翁 こと 小林一三氏 です。
現在、六甲山の麓、阪神地域では、大震災の後の復旧を、むしろ復興であると考えようというビジョンの基に、各所で再開発が行われています。
平成不況の打開に、小林一三氏のようなオピニオンリーダーの再来が望まれ、今、氏が脚光を浴びています。 |
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以下で (1) 等は文献番号を表し、クリックするとリストを参照できます。
小林一三氏は、戦前・戦後にかけて毎年のように、避暑のため、六甲山ホテルに40~50日逗留しました。 この中で、氏は 愛する六甲山を「何とか」しよう と表明しています。 以下にその部分を引用しましょう。 太字による強調は私が追加しました。 |
(当時の六甲山ホテル)
昭和26年撮影 |
昭和27年
7/23 晴
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旅行の荷物を整理して午後二時出発、敦子同道自動車にて有馬道から登山、丁度二時間にて着。
六甲山ホテルに泊る、能く修繕ができてゐるのに感心した。
お客様は今夜は他に一人ある丈にて淋しい、涼味満点也。
六甲山ホテルは独逸捕虜収容所として占領され、そして乱暴に破壊されてあつたが、二十三年漸く返して貰つたけれど、敗戦後山上の乱脈、白昼泥棒が横行する始末にて各別荘も空家同様にて辛うじて留守番を置く程度に維持されて居つたとの事。
戦時中にロープウエーは徴用撤去され発着所の跡片付も未だに片付かず荒廃のまゝ放置されて、月見橋も破壊のまゝ実に古戦場を見るが如き悽愴の感あり。
これを、もとの通りに、戦前の繁昌にするのには何年かゝることであらうと感慨無量也。
然し六甲山は京阪神間に於ける文化的公園としてどうしても大成すべき必要があると信ずるから、復興と同時に、その新しい建設案を研究すべしである。
私は八月一杯はこゝに静養するつもりであるから、何とか立案して見たいと思ふ。
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ここにあるように、戦後ドイツ人収容所になっていた六甲山ホテルは23年 阪急に返還されたのですが、それからしばらくは、祖父がホテルの管理・修繕に当たりました。
26年からは夏だけホテル業を再開します。
戦後の六甲山の復興事業としては、22年頃に新池遊園地、23年5月に平和観音像ができたのを始め、24年4月に六甲山小学校(分教場)が開校しましたが、本格的な復興はまだまだで、山上施設は荒れるにまかされており、小林一三氏がその状況をみて嘆いたのも、もっともなところでした。
さて、この状況を何とかしようと、氏は持ち前のアイデアを発揮して、六甲山復興キャンペーンに撃って出ます。
その最初が、県への 「六甲山は泣いてゐる」「六甲山は喜んでゐる」 という2つの上申書の提出。
この文は朝日新聞を通じて全国に紹介されました。
以下に「六甲山は泣いてゐる」の一部を引用しましょう。
8月7日付の朝日新聞の5面を、広告を除いて一面丸々割いた特集記事 眠れる六甲〝開眼〟へ の中に掲載されたものです。
新聞なので現代仮名づかいになっています。
太字による強調は私が追加しました。
六甲山は泣いている 小林一三 十何年ぶりに六甲山ホテルに投宿して、涙の出るほど荒廃している山上の風景に接し、私はいま感慨無量である。
何というなさけない風景 ! ...
眼下の市街地や、遠く紀州の山岳などの眺望のために出来ておった道路添いの茶店や飲食店は、いつ破壊されたのか、跡形もない。 ...
登山者の大多数はこの記念碑を見当に行楽の休憩所として集まるのであった。 ... |
という具合で、県・市に対して手厳しいものとなっています。
さらにこの記事の発表の後、氏は六甲山開発施設の方針についての2回の座談会を持ちました。
座談会の内1回は 「日記」(1) によると、9/2613:00~六甲山ホテルにて、岸田兵庫県知事・原口神戸市長他、観光課関係の役人が参加して行われました。
六甲山の復興を強力に呼びかけたのです。
これを、27年のホテル滞在中(7/23~9/4)にこなしてしまうのですから、ひとたび思い立ったらのエネルギーは、さすがです。
このとき、小林一三氏は79才。
もちろん、ホテル滞在中は、六甲山のことばかり考えていたのではなく、登山してくる来訪者に毎日のように応対、さらには下山しては、阪急や宝塚、復興間もない東宝についての仕事をこなしているのですから、超人的です。
この様子は、小林一三日記を読めばつぶさに分かります。
この年の主だった動きとしては、ここまでですが、日記による氏自身の評価によれば、
昭和27年
9/26 晴
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六甲山は此夏ホテルに滞在中執筆した「六甲山は泣いてゐる」「六甲山は喜んでゐる」二編の記事を発表した其影響によつて、いよいよ具体化される光明を見るに到つたことは嬉しいことである。
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となっていますから、ひとまずは県や市がその気になってくれたので満足されたのでしょうが、もちろんこれで終わりでなく、六甲山に関する具体的な取り組みはその後実行に移され、昭和32年 亡くなるまで続いていきます。
いえ、それ以降も、祖父が遺志を継ぐ形で、営々と続いていったと言って差し支えないでしょう。
小林一三氏が、このように六甲山にこだわったのは、阪急としては、戦前から阪神と開発にしのぎを削ってきた意地があるとか、ましてお金持ちの老人の道楽なんかではありません。
そもそも阪急は、大阪と宝塚・箕面を結ぶ、箕面有馬(みのおありま)電気軌道株式会社 (箕面電軌)がスタートでした。 模範的郊外生活とは、箕面電軌のキャッチフレーズですが、これは、沿線に人を呼び込もうという単純な発想ではなく、電車を中心に人との共生・共栄をはかっていこうとする、氏の鉄道事業に対する理念を端的に表している言葉です。 |
(創業当時の箕電)
駅は主要なもののみ
実現はしませんでしたが、 |
阪急百貨店創設当初に作られた「阪急百貨店店員心得書」の最後に「五戒」というものがあり、その最初が、
一.吾々の享(う)くる幸福は御来客の賜(たまもの)なり
となっていますが、この言葉が表す「幸福」を得るために、氏は、御来客に対して如何にサービスするかを考え、アイデアマンとしての能力を最大限傾注したのでした。
このような発想で、氏が興した事業には、阪急不動産、宝塚歌劇、全国初のターミナルデパート阪急百貨店、東宝、高校野球 (今は阪神甲子園球場で行われていますが、そもそもは阪急が豊中球場で始めたのです) など、枚挙にいとまがないとは、まさにこのことです。 これら、氏がとりくんだ事業は、あくまで 大衆のため であるという考えが貫かれているのです。 最近でこそ、共生・アメニティ・メセナを謳った企業は多くありますが、昭和の初期のモダニズムを形成したこれらの発想を、どんどん具現化していった氏の業績は目を見張るばかりなのです。 |
さて、六甲山は、氏のこのような経営理念からするとどういう位置付けになるのでしょう。
以下のことがポイントであると考えられます。
(1) 六甲山は沿線住民のリゾート地としてあるべきである
沿線住民の背山として常に目に触れ親しまれてきた山である。 そのため... 山上の各種レジャー施設と、山上への交通インフラを整備しなければならない。
ただし、それらの開発は、名だたる 六甲山公園 として 洗練されたものでなければならない。 |
(当時の鉄道路線と六甲山の位置関係)
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(2) 山上は住宅地と考えるべきである
山上は一部階級の別荘地としてより、今後はむしろ住宅地であると考えるべきである。 そのため... 山上の道路、水道、電気、医療施設など、住環境(ライフライン)を整える必要がある。 |
このことについて氏は、当時の野村証券社長の奥村綱雄氏との対談の中で次のように述べています (「小林一三全集」第7巻(2) 対談 より引用)。
日記」(1) によると、対談は8/19に六甲山ホテルで行われています
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いちばん必要な表ドライヴウェーというのはすっかりつぶれておって、かれこれ二十年も前、三回くらい修理してできたのですけれども、それがもうすっかりつぶれてしまったから、どうなるかわからないでしょうね。こうさびれてしまって...
今幸いにここは、幸いか、幸いでないかしりませんが、神戸市になったのです。そうして中心地点は六甲山公園という、元兵庫県のものでしょう。あるいはこんど市になるか、とにかくそういう中心があって、そうして立派なケーブルカーがありますからね。阪神間のほんとうのレクリエーションにしては、このくらいいいところは少ないのですよ。今まで六甲は二百何十人の宏壮なる別荘地区として、別荘人のためにいろいろ工夫して来たのですが、結局それは必要ですけれども、その前にやらなければならんことは、やはり阪神間の市民のための...
大衆のためのレクリエーションにいいのですよ。そういう方針でゆけば大した金もかからなくてやっていけるのですがね。私はそれをやり、その次にはここへ住んでいる人の立派な住宅地にしたらいいということを考えているのですがね。というのは、神戸市になって、春夏秋、立派に住めるところですから...。ここを単に別荘と考えなくて、ちょうど山の上の住宅地ということがいいか悪いか知りませんが、水もありますしね。ですから、私はここをどういうふうな住宅地にしたらいいだろうか、それを今いろいろ若い者と一緒に研究しているのですがね。
...
さらに「六甲山は泣いてゐる」の中では、
前掲の続きです(一部略)。
私は今やあまり老人であり、論議する勇気がない。 ...
私は六甲山施設の夢を画いたのである。
失敗の原因はいろいろある。
しかしそこに忘れてはならぬのは大公園としての限界である。 |
とも書かれています。
阪急という一企業を越え、官民一体で六甲山に取り組むことが必要であるとの主張なのです。
以上の様々な構想を具体化するために、別項で紹介している、 表六甲ドライブウェー の再建があり、集約点として、祖父が任された、六甲山経営株式会社 が生まれたのです。