(3) 話題 (評判・戦前のロープウエイ達・ケーブルが残った事情)

六甲登山ロープウエイにまつわるお話イロイロ...


サーバーの移行に伴う変更について


1. ロープウエイは是か非か

六甲登山には一番便利爽快東洋一と、六甲登山ロープウエイの宣伝文句はいろいろありますが、当時の人々はロープウエイをどのように見ていたのでしょう。

以下、役職は当時のものです。

公園綠地 第一巻 第十號(10)(昭和13年) での各氏の意見

直木 重一郎 氏 (登山家)
この外今日では前ヶ辻道の途中よりケーブル、ロープウエーが新設せられ更に乘合バスと連絡出來るやら全く結構な時代になつてゐますが、やはり駕籠で登つてゐた時代の方がはるかに奥床しい氣が致します。
(關西山小屋 第十六號 六甲山特輯(11)でも同様の意見が述べられている)

野田 誠三 氏 (阪神電鉄土地課長)
只今では市内から一時間で、神戸からは三十分で、ゐながらにして海拔三千尺の六甲山頂に登れるといつたような便利な時代に立至つたわけでございます。

森 一雄 氏 (元兵庫県技師)
ロープ・ウエーなりケーブル・カーなどが出來まして大衆が利用するのに非常に都合よくなつたと同時に、土地が割合に前よりも簡單に得られるといふような状態になりましたのでめきめきと山上の發展を見たのであります。

藤木 九三 氏 (登山家)
別荘地が登山路に張り出しているために登山が楽しめないとの話の後
私はそれがためにこのケーブル・カーなりロープ・ウエーが出來て非常に短時間で六甲の上へ登られ浩然の氣を養い得るのでありますからこれは非常に結構なことだと大いに勸迎してをるわけでありますが、さて上へ登つて見たところで氣持よく出來るかどうかといふことにもう少し留意してやつて貰ひたいものと思ふのであります。

我々非常にケーブルやロープウエーに感謝しなければならないのは六甲に雪が降つたといふと朝五時頃から出かけて行つて山へ登り會社へ出るまでに一息スキーが出來るといふことであります。
今までは六甲に雪が降りさうだと前の晩から出かけて行つたものですが、今日では非常に便利になつたので我々の仲間は朝早くケーブルなりロープ・ウエーで登つて、降りはドライヴ・ウエーを降りて來る。

便利を採るか、自然(環境)保護か、今も昔も、山の開発には同じ議論がされているようです。
しかし、元々六甲山はリゾート地として、明治のグルーム氏より開発されてきたわけですから、便利の方がやや勝っているようです。
それに、当時は環境問題よりも、山を楽しめないという発想のようですね。

さて、そのロープウエイも戦争で撤去されましたが、戦後、復旧に対する期待はあったのでしょうか。

これに対して、昭和29年阪急の小林 一三 会長は、神戸市との表六甲有料道路計画の会談の席で、以下のような話しをされています。(12)

神戸市からの要請で、融資の話をきめるときに、社内の一部からロープウェイの再建計画が持ち出されて、神戸市への融資との是非が検討されることになった。

ロープウェイの復活計画はかなり以前から担当部門で練られていたようだったが、私はロープウェイはもう時代おくれだ。
これからは自動車の時代だ、こんなことが見えぬようでどうするのか、近頃の三等重役どもはロクなことを考えておらぬと叱りつけてやったよ。

期待はあったが、この鶴の一声(3)で復旧は成し遂げられなかったのです。
小林会長は、オーナードライバーの時代の到来を予見されていたようです。

でも、阪急社外でも復旧へのラブコールはあったようです、

六甲連山と武庫川溪谷(9)(昭和28年) での山本 吉之助 氏の意見

山本 吉之助 氏 (神戸私立王子動物園園長)
彼の深い溪谷の上空を通過するスリルに富んだ爽快味を再び味い得ないことは残念である。

ロープウエーの如き展望とスリルに富む交通機関も復活したいものである。

確かに今あれば、私も家族で乗りに行ってみたいですね。

2. 戦前あったロープウエイ達

戦前国内でいくつかの旅客用の索道が建設されましたが、ほとんどは戦時中、不要不急として撤去されてしまいました。

戦前国内にあった旅客用のロープウエイは以下の通りです(1)
昭和19年不要不急の転用が実行され、ほとんどが六甲登山ロープウエイと同じ運命をたどっています(で印したもの)。

名 称 開通年月 廃止 製造社名 方式 傾斜長
(m)
高低差
(m)
支柱 支索直径
(mm)
搬器定員
(人)
常用動力
(kW)
運転速度
(m/s)

(基)
最大高さ
(m)
最大間隔
(m)
新世界
ルナパーク
M45.7 大正末 セレッティ・
タンハニー
複線交走 - - - - - - 4 - -
大正博
空中ケーブル
T3.4 会期末 中央工業所 複線循環 - - 2 - - - 8 - -
矢ノ川峠
旅客索道
S2.5 S11 安全索道 単線循環 1254 382 9 20 286 25 2 14.7 1.0
愛宕索道 S3.2 S19 大阪工務所 3線交走 131 60 2 9 119 29 8 18.4 2.0
東北産業博
仙台索道
S3.4 会期末 安全索道 4線交走 300 10 3 - - 38 21 37.5 2.0
叡山索道 S3.10 S19 セレッティ・
タンハニー
3線交走 642 2 1 12 409 50 20 36 3.0
吉野山
架空索道
S4.3 現存 安全索道 4線交走 335 95 5 21 105 38 10 36.8 2.0
六甲登山
架空索道
S6.10 S19 安全索道 3線交走 1567 413 4 20 578 54 25 DC75 3.5
松屋
遊覧索道
S7.6 S19 玉村式索道 複線交走 100 0 2 - - - 10 10 1.0
二見浦
旅客索道
S7.7 S19 東洋
空中索道
3線交走 260 109 1 24 138 48 21 37 2.5
明智平
架空索道
S8.11 S19 東洋
空中索道
3線交走 290 94 - - 273 44 16 29.8 2.5
三峰登山
架空索道
S14.5 - 安全索道 3線交走 1770 615 2 33 609 58 21 63.5 3.6

吉野山架空索道は撤去をまぬがれ運転を継続し、戦後一部改良し現在も運行している。
三峰登山架空索道も同様に運転を継続し、昭和39年新三峰ロープウエイ開業によって廃止された。
明智平架空索道は撤去されたが機械が温存されていて昭和25年旧線に一部改良の上再架設された。

3. ケーブルは残った

六甲ケーブルも不要不急として撤去されようとしたのは、先に述べた通りです。
しかし、生き延びて、現在の六甲山への主要交通機関となったのには次のようないきさつがありました。

以下の文は、昭和30年発行の阪神電気鉄道株式会社の50年史輸送奉仕の50年(13)に掲載されている、野田社長(当時)のよもやま話し(懐旧談)の一部です。

ケーブルも有為転変

(問) 六甲ケーブルも荒波を乗り越えて来たのでしょうな。

痛かった試練の大水害

ケーブルは戦災よりも、その前の昭和13年の大風水害の時にひどくいかれたな。
あそこは150万円の会社やったが、復旧費だけで130万円かかった。
実にひどいことでね、今のはルートが変っていますよ。
全部流れてしまって...。

ケーブルの道床へ山崩れした岩石が物すごく落ちてきてトンネルはつぶれる。
下手の方ではレールなんかフッ飛んでしまって谷川になっておる。
貯蔵してあった予備の巻きかえのロープも、2年後に5町ぐらい下手の川床の中から発見されたほどで、何もかも根こそぎいかれてしまった。

あれをやり直したら新設するのと同じだというので、阪神でも放棄の意見が多かったのを、僕らが頑張って、とうとう復旧の方針にして工事にとりかかった。
工事期間実に7ヶ月、工費も莫大だったがやっておいてよかった。

終戦で命拾い

その次は鉄材回収というわけで撤去の運命に直面した。
戦争が激しくなって来てね。

何でも全国で25ヶ所のケーブルのうち第一に10ヶ所やられた。
その次に日光とか高野山など6つを残して、あと全部撤去の命令が下った。
六甲はケーブルとロープウエイのどちらか一つをというのだ。
もちろん阪神はケーブル、阪急はロープを残したいから、双方とも助命運動をしたんだね。
そしたら結局両方とも罷りならんというわけで、ケーブルは昭和19年の紀元節の日から営業を休止され、撤去をはじめたんです。

ところが人夫の不足で、姉妹会社の摩耶ケーブルの方がなかなかつぶし切れん。
そこでその方が片付いてからこちらにかかろうという段取りで、その間六甲の方は自家用に運転をつづけているうちに終戦となり、危うく命拾いをしたんです。
ロープの方は設備が簡単だからすぐ取外しがすんだようだった。
昨今ケーブルは乗客がウンと増えたので、普通の車両オープンカーを直結し4輌運転しているが、この方式は日本で最初の試みですよ。

(六甲ケーブル山上駅にある製造元を示すプレート)

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