明細図の裏面には当時の六甲山の案内が記されています。
その1は「概観」です。
原文は縦書きですが、やむなく横書きにしています(漢詩だけは何とか縦書きにしました)。
なお、意味の変わらない範囲で、字体を変えています。
六甲山とは、武庫川の西岸宝塚に起り、明石の奥塩屋に至るまで、延々として東西に走る事約四十粁、南北二十粁の六甲山脈中、摩耶山の東麓杣谷を延長して唐櫃に結ぶ、南北の線より東側の一帯東西、南北各々約二十粁の山塊を指す呼称である。 其中央に位する最高峰(九三二.二米)を中心として、東六甲、西六甲、或は東西に走る稜線を境として、表六甲、裏六甲、或は東表六甲、東裏六甲、西表六甲、西裏六甲等と区分して呼称されるが、然し近来一般遊覧者は記念碑(本明細図の略中央)を中心として其の東を東六甲、西を西六甲と呼称している様である。 |
名称の起源に就ては色々な伝説がある。
「諺に曰く、當山はむかし、仲哀天皇の先后大仲姫の二王子籠坂、忍熊父帝崩じ給ふて後神功皇后を悪むで兵を発し、三韓より帰陣をここに待ちて屯す。其時皇后早くこれを暁り給ひて、武内宿弥を遣し軍計をめぐらし、籠坂王及五人の逆臣を誅して此峰に埋む。其兜首六頭を以て六甲山と號す」
と。又塩尾寺々記にも同様な事柄が誌されてある。 甲山の摩尼山神呪寺の寺記によれば
「夫當山はむかし、神功皇后三韓を追討し給ひて後国家平安の守護神として、金の兜六刎其外武器を蔵めたまふ。故に地名を武庫と号し山を六甲山と称す」
とある。
新井白石の如きも「武庫山」と題して
の一詩をものしているが、之を証する何物も発見されていない。
加茂真淵は冠辞考の中で、「武庫」は「向」であると説いている。即ち船頭達の標識ともなる様に海に面した山であり、難波の津即ち大阪からも望見されて、常に「向ツ山」「向うの山」等と指呼された事であろう。 |
(六甲有料道路)
(六甲山ホテル)
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六甲山発展の跡を辿つて見よう。 実際には室の津、兵庫港(神戸港)等の発展の為には、背後に稜へる六甲山は重大な役割を演じていたのであるが、むかしの人々は取りたててこれをどうこうと言う事は考えず、只々天恵的な存在に過ぎなかったのであろう。
明治元年に来日し、神戸に兄弟商会を営んでいた英人、アーサー・ヘスケツチ・グルーム氏が、狩猟の途次六甲山の眺望絶佳なると健康に最適なるに着目、明治二十八年に初めて山頂(三国池畔)に別荘を構え、友人知己間に推奨斡旋したる結果、避暑地、別荘地として発展し、大正初年には既に山頂の別荘、五十数戸を数えるに至つた。
外人村時代の交通機関は、主として籠と馬が用いられたが、面白いのは六甲山の籠で、外人村通いに応わしく、在来の者と違い藤の寝椅子を籠にした様なものであつた。
いまわしき第二次世界大戦は、六甲山をも甚しく荒廃せしめたけれども、戦後の観光熱は著しく、ここ数年来急速に復旧開発され、三十一年五月には瀬戸内海国立公園の一部六甲山地区として編入され、同年八月には表六甲ドライブウエイも復旧、完全に補装されて全国初の市営有料道路としてお目見えし、摩耶ケーブルの復旧、摩耶ロープウエイの開通、再度山有料道路の開通と相俟って、今日の六甲山は戦前に数倍する開発が行われ、山頂に散在する山荘、別荘は五百を越え、年間登山者は二百万と号するに至つている。 |
(六甲ケーブル)
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