(2) 六甲山概観

明細図の裏面には当時の六甲山の案内が記されています。

その1は「概観」です。

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原文は縦書きですが、やむなく横書きにしています(漢詩だけは何とか縦書きにしました)。
なお、意味の変わらない範囲で、字体を変えています。

六甲山概観
六甲山とは、武庫川の西岸宝塚に起り、明石の奥塩屋に至るまで、延々として東西に走る事約四十粁、南北二十粁の六甲山脈中、摩耶山の東麓杣谷を延長して唐櫃に結ぶ、南北の線より東側の一帯東西、南北各々約二十粁の山塊を指す呼称である。
其中央に位する最高峰(九三二.二米)を中心として、東六甲、西六甲、或は東西に走る稜線を境として、表六甲、裏六甲、或は東表六甲、東裏六甲、西表六甲、西裏六甲等と区分して呼称されるが、然し近来一般遊覧者は記念碑(本明細図の略中央)を中心として其の東を東六甲、西を西六甲と呼称している様である。

名称の起源に就ては色々な伝説がある。
先づ秋里籬嶌著「攝津名所図会」の武庫山の項を見ると、

「諺に曰く、當山はむかし、仲哀天皇の先后大仲姫の二王子籠坂、忍熊父帝崩じ給ふて後神功皇后を悪むで兵を発し、三韓より帰陣をここに待ちて屯す。其時皇后早くこれを暁り給ひて、武内宿弥を遣し軍計をめぐらし、籠坂王及五人の逆臣を誅して此峰に埋む。其兜首六頭を以て六甲山と號す」
と。
又塩尾寺々記にも同様な事柄が誌されてある。

甲山の摩尼山神呪寺の寺記によれば

「夫當山はむかし、神功皇后三韓を追討し給ひて後国家平安の守護神として、金の兜六刎其外武器を蔵めたまふ。故に地名を武庫と号し山を六甲山と称す」
とある。

新井白石の如きも「武庫山」と題して

の一詩をものしているが、之を証する何物も発見されていない。
只広田神社奥の院と俗称される石の宝殿に神功皇后を祀ると言はれる一小祠があるのみである。
武庫なる文字も武児、務古、牟古等様々であり、為家の歌「有馬山しげれる峰の常盤木にひとり秋しる櫨もみぢかな」とある有馬山も、有馬より見たる六甲山を指すものと思われる。
又古歌にある「譲葉の峯」も現在東六甲にある譲葉山を指すのではなく、六甲山全体を指すものと考えられ、武庫なる文字にこだわるのはいかがかと思われる。
前記の伝説にしても出所を同じくして謂う所を違へている。
百六十年前に名所図会の著者秋里籬嶌既に枕書して「諺に曰く」と言える如く単なる伝説と言うの外あるまい。

加茂真淵は冠辞考の中で、「武庫」は「向」であると説いている。即ち船頭達の標識ともなる様に海に面した山であり、難波の津即ち大阪からも望見されて、常に「向ツ山」「向うの山」等と指呼された事であろう。
それが文字も武庫、牟古、務古、六甲等と当字され、六甲山から囀化してロツコウサンと称するに至つたと言ふ説を最も妥当とすべきであろうか。

(六甲有料道路)
(六甲山ホテル)

六甲山発展の跡を辿つて見よう。
明治初年迄の六甲山は文字通り草莽の山で、時に文人墨客に好素材として用いられたに過ぎない。
御影から有馬に至る唐櫃道と、芦屋から最高峰を経て有馬に至る魚屋道(芦屋谷)は、有馬通いの商人の往来があつたらしいが、之とても「唐櫃道の鬼」などと言う伝説があつた位で、日没と共にバツタリ往来が杜絶えたものらしい。
已むを得ず夜越をしなければならぬ時は、唐櫃の四鬼七兵衞氏を訪ね火繩を借りて越したと言う。
初代の四鬼七兵衞は唐櫃道の創始者と称され、今も尚唐櫃道の行者堂には七兵衞夫婦の石像が祀られている。

実際には室の津、兵庫港(神戸港)等の発展の為には、背後に稜へる六甲山は重大な役割を演じていたのであるが、むかしの人々は取りたててこれをどうこうと言う事は考えず、只々天恵的な存在に過ぎなかったのであろう。

明治期に入つて所謂文明開化の世となり、生活様式が変つてから、山上で天然氷の採氷が初つた。
現在冬季に於ける天然スケート場として、山頂に散在する三十余の池は、凡て採氷のために設けられたものである。
最初に之に目をつけたのは、京都の山田、神戸の浅井両氏で、山田は龍紋の屋号で栄町に、浅井は三宮に夫々恐らく本邦での草分けと思われる氷屋を開業したのであるが、夏季最盛期になると、毎日数十台の大八車が氷を満載して前ヶ辻道(アイスロード)を往来したと言はれ、両氏は当時長者番付に載る程の繁昌であつた。
併しこれも人造氷の発展に押されて、昭和四年に黄楊広太郎氏が黄楊池で採氷したのを最後に跡を断つに至つた。

明治元年に来日し、神戸に兄弟商会を営んでいた英人、アーサー・ヘスケツチ・グルーム氏が、狩猟の途次六甲山の眺望絶佳なると健康に最適なるに着目、明治二十八年に初めて山頂(三国池畔)に別荘を構え、友人知己間に推奨斡旋したる結果、避暑地、別荘地として発展し、大正初年には既に山頂の別荘、五十数戸を数えるに至つた。
一方山頂に遊歩道を拓き、本邦最古のゴルフ場を開設するなど氏等の絶大なる努力は、所謂六甲外人村時代を現出し、国立公園六甲山の今日ある緒をつけたものである。

外人村時代の交通機関は、主として籠と馬が用いられたが、面白いのは六甲山の籠で、外人村通いに応わしく、在来の者と違い藤の寝椅子を籠にした様なものであつた。
当時は五毛と新在家に帳場があり、明治四十三年の朝日新聞によると、五毛から三国池までで籠賃が一円とあるから相当な景気であつたらしい。
大正末期から六甲山は漸次観光地として開発されるに至り、昭和二年にはドライブウエイが開通して、有馬、阪急六甲より夫々バスが通うようになり、籠屋馬方は影を消して了つた。
昭和四年には六甲山ホテルが開業し、昭和六年九月にはロープウエイが開通、翌昭和七年三月には六甲ケーブルが開通して、神戸、大阪より僅々数十分にして山頂に達する事となり、此地理的な好条件は六甲山の発展に拍車をかけ、別荘を構えるもの三百有余、遊覧する者年間五十万を数え、遂に国際的な避暑地、観光地として其名を海外にまで走せるに至つた。

いまわしき第二次世界大戦は、六甲山をも甚しく荒廃せしめたけれども、戦後の観光熱は著しく、ここ数年来急速に復旧開発され、三十一年五月には瀬戸内海国立公園の一部六甲山地区として編入され、同年八月には表六甲ドライブウエイも復旧、完全に補装されて全国初の市営有料道路としてお目見えし、摩耶ケーブルの復旧、摩耶ロープウエイの開通、再度山有料道路の開通と相俟って、今日の六甲山は戦前に数倍する開発が行われ、山頂に散在する山荘、別荘は五百を越え、年間登山者は二百万と号するに至つている。
尚今後も国立公園として諸種の整備開発計画が建てられ、ここ数年を出ずして、大都市に近接せる国立公園として面目を一新しようとしているのである。

(六甲ケーブル)
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